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ごく普通の夫婦がろう児のための学校を設立。社会の変化に挑むための広報戦略とは?(前編)

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お子さんの耳が聞こえないと判明したことをきっかけに、自分たちができることとして、ろうの子供たちが学ぶ環境の矛盾を取り去り、新たに整え直そうと動き始めた玉田雅己さん、玉田さとみさん。それぞれに役割分担しながら駆け回り、「NPO法人バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター(BBED)」を設立。普通の人の3倍も4倍も濃厚な日々を送るお二人に、学校設立までのお話と、それにまつわる広報の重要性について、二枚目の名刺WEBマガジンの安東と橋本が伺いました。

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自分の子供とどのように意思疎通をはかればいいのか? 現実へのショックが学校設立するきっかけに

—まず、BBED立ち上げの経緯からお話いただけますでしょうか。

雅己さん(=以下、敬称省略):私たちの次男が2歳になったときに耳が聞こえないということがわかったことで、日本におけるろう教育の現実を目の当たりにしたのが、そもそものきっかけです。1998年のことですが、その当時、ろう学校では手話での教育がなされていなかったのです。

さとみさん(=以下、敬称省略):日本では、昭和8年からろう学校での手話が禁止されて、その状況がずっと引き継がれてきたのです。聴覚口話による教育、つまり声を出すこと、聞き取ることが第一とされてきました。

雅己:じゃあ次男とどうやってコミュニケーションをとればいいのだろうかと、とてもショックでしたね。口話教育というのは、手話を教えずに、聞こえる人に少しでも近づけようとする教育です。話せるようにするための訓練なんです。それは違うだろうと思いました。聞こえない子は自分の声を自分の耳で確認できないのだから、正確な発音ができるわけがありません。そういった点に矛盾を感じ、次男を手話で育てたいと考えましたが、日本には手話での教育を採用している学校はありませんでした。

そういった経緯があり、ろうの青年が、“自分たちが受けてきた口話教育を子供たちに経験させたくない”という想いで運営していたフリースクール「龍の子学園」に次男を通わせながら、公立ろう学校に手話で学べる環境をつくる活動を始めました。フリースクールでは経営が不安定ですから、まずは基盤をしっかりさせるためにNPO法人格を取得しました。それからしばらくして、小泉内閣が進めた規制緩和により、NPOでも学校を作ることができる「教育特区」の制定に向けた動きが始まりました。

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—社会的な状況もお二人の活動の後押しになったのですね。

雅己:はい。とはいえ、もちろんまだ誰もやっていなかったことですから、すぐに実現できたわけではありません。ただ、(さとみさんとは)もしかしたらできるんじゃないか、できたらいいねという話はいつもしていました。それで経営の安定化と、学校を設立するにあたってもスムーズになるだろうということで、まずは法人格を取得し、「NPO法人バイリンガル・バイカルチュラルろう教育センター教育部 フリースクール龍の子学園」と名を変えました。

さとみ:私たちが動き始めたのが2000年で、NPO法人になったのが2003年、2005年に特区提案が通り、2008年にやっと明晴学園を設立できたのです。2003年くらいから様々な場所で「ろうの子供たちが日本でどのような状況にあるか」ということを知ってもらうための活動をしてきましたが、その流れで特区についての情報を得ることができました。そして「NPOで学校が作れるか」というテーマの勉強会に参加したことで、初めて教育関係のNPOの方々と出会い、仲間の輪を広げると同時に、日本の教育には色々な問題があることを知りました。

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A4両面のコピーと“1分プレゼン”から始まった、たった二人の広報活動

—ろうの子供たちを取り巻く状況について広く知ってもらうために、具体的にどのようなことをされてきのですか?

雅己:最初にしたことは、読売新聞に掲載されていた「こども未来財団」のエッセー募集に応募することです。

さとみ:すべてはそこから始まったのかもしれません。広報というよりも、ろう学校では手話を使っていないということ、手話で育てた方がいいのだという考え方を、とにかく広めなくてはならないと必死だったのです。我が家では読売新聞を購読していますが、そのきっかけも手話なんです。次男が近くのコンビニに出かけたときに、ある男性を連れて帰ってきて。聞けば「この人は手話ができるんだよ」と。その方は聞こえるけれど、ご両親がろう者だということでした。たまたま彼が新聞の勧誘の仕事をされていたので、読売新聞を購読することになったのです(笑)。

それからしばらくして、読売新聞に子育てのエッセーで賞が取れる「こども未来賞」のことが載っているのを見つけました。なぜ私が応募したのかと言うと、「こども未来賞」と「読売新聞賞」の二つは全文が読売新聞に掲載されるということだったからです。何といっても全国紙ですからね。そうやって挑戦したエッセーで「こども未来賞」をいただいたことをきっかけに、広報活動が始まりました。

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—新聞に載ったことでの反響はいかがでしたか?

さとみ:メディアに掲載されるということは、ある意味では第三者評価を得ることでもあるのです。新聞が認めてくれたという形になる。テレビに出ることも同様ですが、やはり新聞というマスな紙媒体で取り上げていただいたことは大きかったですね。信用度を増すことができるので、お話をさせていただく相手の方からの警戒心がなくなるんですよ。

雅己:そこから新聞の紹介記事とエッセーをA4用紙両面にコピーした資料を持って、いたるところに配り始めました。彼女は家で家事や子供の世話がありますし、私は仕事があるため、動けるのは平日の夜や土日です。最初は私が夜に開催される勉強会や講演会など、色んな場所に出かけていき、たくさんの方に会いました。

さとみ:(雅己さんが務めていた)当時のIT業界は昼夜問わず仕事、仕事でしたから、彼は講演会が終わったら、また会社に戻るということを普通にやってくれていましたね。

雅己:会場では常に最前列の真ん中に座るようにしていました。そして、最後の質疑応答の時間に、まずは自分の身分を名乗った上で、日本に手話を学べる学校がないこと、アメリカや北欧では手話での教育が主流であること、その状況をなんとかしたくて勉強に来たことを話します。僕はそれを“1分プレゼン”と呼んでいるのですが、そうすると会場にいるすべての方に僕たちの活動を知ってもらうことができます。そこで興味を持ってくださった方などと、会の終了後に名刺交換する。

もうあらゆる講演を見つけては出かけていましたよ。そうして繋がった方々が、「どこどこの企業さんからこんな話があるけど」という情報を教えてくださる。さらに僕らの考えを理解してくれて、一緒に活動してくれそうな方がいれば、昼間動けない僕に代わって彼女が会い、親交を深めていました。

さとみ:私たちの活動をとにかく知ってもらわなければ始まらないので、たくさんの人がいるところでお話しすることが大事でした。少しでも心に引っ掛かれば、家や会社で話してくれるかもしれない。それが最初の一歩に繋がるかもしれませんから。

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参加した講演会・勉強会は1000回ほど。異なるテーマやジャンルの中にもヒントがある

—見方を変えれば、それほどろうのお子さんを取り巻く環境が知られていなかったわけですね。

さとみ:そうですね、やはり専門性の中に閉じ込められていました。様々な講演会や勉強会に参加する中で感じたのは、一見関係のないところに行くことも大事だということです。私が初めて参加したのは「アサザ基金」の飯島博代表の講演でした。

アサザ基金は、霞ヶ浦の水の浄化問題について、当時で20年も取り組んでいた団体ですが、初めの一歩が全く関係ない事業から始まっているんですよ。けれど、ぐるっと回って、ちゃんと霞ヶ関の浄化に繋がっている。関連するいくつものプログラムがあり、何億円ものビジネスがそのなかで回っているのです。

そのこととろう教育とは直接的には関係がありませんが、飯島さんの話は私の中にストンと落ちたし、とても刺激的でした。それからテーマやジャンルを問わず色々なところに顔を出すようになったのです。それこそ二人で、4年かかって1000回くらいは参加しましたね(笑)。

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後編に続くー

後編では、少ない人数で効果的な広報を行うためのコミュニケーション戦略や発信の仕方について伺いました。

 

写真:奥田耕平
文:今井浩一
聞き手:安東直美・はしもとゆふこ(2枚目の名刺Webマガジン)
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