「震災3日後に熊本へ!復興ボランティアに全力を注ぐ建設会社社員」恒松球道さん
2016年4月14日と16日に震度7を観測する地震が熊本地方を襲った。「熊本地震」である。その後も大きな余震が続く中、救援物資をハイエースに積み込み、一人で被災地に飛び込んだ勇敢な男がいた。熊本県人吉市出身の恒松球道さんである。この日から、恒松さんの“二枚目の名刺”を持つ生活が始まった。
被災地でのボランティアから戻ってきた1週間後には一般社団法人「がんばるけん熊本機構」を立ち上げ、建設会社に勤務しながら、土日や平日夜に熊本復興のためのボランティア活動に勤しんでいる。そんな恒松さんが二枚目の名刺に掛ける想いを伺った。
●がんばるけん熊本機構
使命感に駆られ、震災3日後に被災地へ
2度目の大きな地震が起きた後、情報が錯綜している中で、「考えるよりも先に体が動いた」という恒松さんは、その時の生々しい心の動きをこう語る。
恒松さん(以下、敬称略):「最初に地震が起きた時も、マズいなとは思ったんですが、その後再び震度7の地震が起きたと知った時に、心配でいてもたってもいられなくなりました。地元でみんなが困っているのに、仕事どころではなかったですね。『何かしなきゃ!』という使命感に駆られました」
「何かしなきゃ!」と思った次の瞬間には、勤務先の社長でもある自身の叔父のもとに行き「熊本に行かせてくれ!」と直談判したという。その行動力も然ることながら、それを許してくれた会社も懐が広い。
恒松:「『とにかく物を持って行ってやらないと』という気持ちがあったので、車に物を積めるだけ積み、陸路で熊本を目指すことにしました。僕と同じく熊本出身である叔父も『わかった、行ってこい!』と、会社のハイエースを無償で貸してくれただけでなく、ETCのカードの使用も許してくれました。初動が早かったのは、会社の理解があったからだと感謝しています」
Facebookで募った救援物資がハイエースいっぱいに
会社のハイエースを借り、熊本を目指すことになった恒松さんは、始めたばかりのFacebookで「救援物資を熊本に運びます」という呼びかけを行う。SNSで情報が拡散することは多いが、ある程度の露出がないと難しいのが現状だ。しかし、そんな常識を覆す出来事がこの時に起きている。
恒松:「僕がFacebookを始めたのは2016年の2月で、この時はまだ友達が30人しかいなかったんです。でも、『明日の19時に、武蔵小杉駅のバスターミナルまで救援物資を持ってきてくれたら、僕が熊本まで運びます』という投稿をしたら、シェアされて広がっていって。見ず知らずの人たちが、たくさんの救援物資を持ってきてくれました。中には軍手200枚を託してくれた方もいましたが、米や水などのライフラインをつなぐ物資が多かったですね」
また、「道中であればどこにでも寄ります」という投稿が反響を呼び、愛知、大阪、神戸に用意されていた支援物資を運ぶことにもなったという。
恒松:「武蔵小杉を出る時点でハイエースはパンパンだったので、その地その地で全て荷物を下ろして、また積み直して。屋根や助手席も救援物資でいっぱいになりました。愛知に到着したのは21時、大阪には23~24時、神戸には1~2時だったんですよ。それでも皆待機してくれていて、物資だけではなく、その人たちの想いも届けなきゃと思ったことを覚えています」
震災直後の被災地で、2週間のボランティア活動
19日に自宅のある川崎市を出発し、たくさんの物資とともに翌20日には現地に到着。混乱まっただ中の被災地で、恒松さんはどこに向かったのだろう。また、滞在期間中どのような過ごし方をしていたのだろう。
恒松:「『僕が行くことで、逆に迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、まずは全力で物資を届けます』とFacebookに投稿していた通り、まずは物資を託してくれた人たちから『ここに持って行って欲しい』と言われた場所に届けることにしました。その後、残った物資は全て(被災者に配布されることになる)物資倉庫に持って行きました。
熊本には2週間滞在し、民間のボランティア団体と共に物資の整理や管理、配布をしていました。実は行政に届く支援物資は指定避難所にしか配ることができず、配ることを許されているのも、NPOや一般社団法人といった一部の団体に従事している人だけ。水道が使えない状況があるのに、一部避難所では水が余っているといったことがありました。僕らがしていたのは、避難所で余っていた物資を老人ホームなどの施設に届けるというボランティアです」
ボランティアから帰宅後、1週間で社団法人を設立
2週間のボランティアを終えて自宅に戻った恒松さんは、その翌週に一般社団法人がんばるけん熊本機構を立ち上げる。どうしてボランティアを続けるというだけではなく、「団体を設立する」という選択をしたのだろうか。
恒松:「社団法人を立ち上げたのは、目的ではなく、手段のためです。ボランティア活動をする一環、熊本支援をする一環として、団体があった方がスムーズに動けることがあるかなと。実は震災が起きる2年前から、故郷である熊本のために“何か”したいと、社団法人を設立・運営するための勉強会などに参加していたので少し知識はあったんです。ドライバーを持ってなんぼの建設業界にいる、そんな僕に何ができるのかと考えた時に、一つの手段として社団法人を立ち上げることを思いつきました」
被災地ボランティアから首都圏での活動へ
もうすぐ団体設立から1年を迎えるが、この1年間、どのような活動を行ってきたのだろう。また、活動内容や本人の心境や環境に何か変化はあったのだろうか。
恒松:「団体設立直後は毎月のように熊本に赴き、NTTから水1000本を提供いただいたものを運んだりといった、救援物資の収集や配送、配布、炊き出しなどのボランティアを行っていました。5月から6月にかけては食中毒が起きて大変な状況でしたが、9月頃になると被災地もだいぶ落ち着いてきたので、被災されている農家や漁業、海苔などの生産者の方々に実情を聞いて回りました。
昨年は地震だけではなく台風も熊本地方を直撃し、生産者の方が受けた被害は甚大なものだったのです。こうした生産者の方々への支援が何かできないかと手探りで始めたのが、首都圏で開催されるマルシェへの出展やレストランや小売店に繋げるということでした。今ではほぼ毎週、熊本の農産品を販売し、売り上げを熊本に送っています」
3月18日の取材当日も、高円寺座の市で開催されていたマルシェに出展。熊本市をホームとするサッカークラブ・ロアッソ熊本の「ロアッソ君」の被り物姿で、熊本特産のポンカンや自然薯、こっぱもちなどの販売に精を出していた。
発信することで、想いを同じくする個人や団体とつながった
恒松:「今は熊本県人会やロアッソ熊本の応援団体の方々、同じように復興支援活動を行っている熊本県内のクリエイター集団・BRIDGE KUMAMOTOの方々と一緒にマルシェに出展しています。想いを同じくする個人や団体が、僕たちがやっている活動にも賛同して、入ってきてくれたり、協働してくれたりしているのです。みんな本業を持ちながら、二枚目の名刺としてボランティアで参加してくれている方ばかり。一人で始めた活動ですが、こうして参加者の輪が広がっていくことで、熊本の力になればいいなと思います」
こうした団体とのつながりも、恒松さんが自分の足で紡いできたものだ。休日や平日の夜の時間を使い、復興支援のために活動をしている人に自らアポイントを取り、会いに行くといったことを、 “つながるフェーズ”に変化した昨年秋頃から行っている。
恒松:「『すみません、少しお時間をください。お話しさせてください』といったことを繰り返していました。それが連鎖していって、今のがんばるけん熊本機構の現状があります。自分から入っていって、『何か出来ませんか?』『僕は動けます』ということを発信していたら、いつの間にか色んな方々とつながり、コラボレーションするようになっていたのです」
こうした発信からオファーが舞い込み、震災や復興支援についての講演活動も度々行っているのだという。取材日直近も、3月20日の国際幸福デーに開催される「HAPPY DAY TOKYO 2017」など、マルシェ以外のイベントへの参加が多数予定されていた。確実に、活動の幅も広がっていっているようだ。
無印良品完全協力のもと、熊本復興イベントを主催
団体を設立してから1年間、周りを巻き込み、取り込みながら、復興支援に取り組んできた恒松さん。こうした活動が実を結び、4月13日(木)から19日(水)の1週間、MUJI有楽町でイベントを主催することになったのだという。
イベント詳細は>こちら
恒松:「自分たちが主体となってイベントを開催したい、『東京が熊本としっかりつながっている』ということを熊本に届けたいということをSNSで発信していたら、無印良品の方からお声がけいただいたんです。有楽町店3階のイベントスペース(Open MUJI)を1週間無償でお借りし、『つながろう熊本~くまもともっと~』を開催させていただけることになりました。熊本地震に関する写真や資料の展示、熊本の特産品や郷土料理の販売・提供、トークイベントや親子で楽しめるワークショップ、熊本出身の落語家による寄席などを行います」
二枚目の名刺に全力投球できるのは、家族の支えがあってこそ
人や他の団体と協働で何かをすることで、人に会い、話をする場を設け、交流を深め、実行に移すための様々な事務的な作業も発生する。恒松さんは本業に費やす以外の全ての時間を、こうした二枚目の名刺の活動に充てている。
恒松:「この活動を継続できているのは、ひとえに妻のおかげなんです。僕には2歳になったばかりの息子がいるのですが、震災直後の熊本に向かったのは、子どもがちょうど1歳になったばかりの頃でした。人手が必要な時期に、『熊本に行きたい』という僕の気持ちを汲んで送り出してくれた。それだけではなく、この1年、休日はすべて団体の活動に費やすことを許してくれています」
取材当日も、スタッフの間を元気に走り回る、息子さんの銀くんの姿があった。毎週のように恒松さんが出展するマルシェに同行しているようで、見知らぬ大人にも慣れているのか、人懐っこい笑顔を見せてくれる。
恒松:「あまり家にいないので、息子が懐いてくれないのが悩みなんです(苦笑)。先日も打合せで夜に家を空ける時に、妻にボソッと『またシングルマザーだね…』と言われたのですが、あまりいい夫、父親ではないですよね。僕の会社は日給制なので、働いた分の給料しか入ってきません。マルシェが開催されることの多い土曜日も、本来は仕事があるのですが、仕事を休んで、給料が減るのを承知でここに来ています。それを妻も理解してくれている。本当に感謝しかないんです」
活動を続けられるのは、家のことや育児を一手に引き受け、送り出してくれる奥さんあってのことだというが、奥さんはこうした恒松さんのことをどのように思っているのだろう。奥さんの由佳子さんに話を聞いた。
由佳子さん:「震災後の被災地に行くと言われた時に、『やっぱりな』と思いました。夫が熊本のために何かをしたいと思っていることは知っていましたから。でも、子どもが生まれたばかりでしたし、被災地に行くことで、彼自身が被災者になる可能性もある。正直行って欲しくはなかったですね」
それでも反対することなく送り出した由佳子さんも、今では毎週のように銀くんを連れてがんばるけん熊本機構の活動に参加している。MUJI有楽町で開催されるイベントで、熊本産の有機野菜を使った料理教室の講師を担当するのも由佳子さんだ。
由佳子さん:「団体を運営する上で貯金を切り崩すこともあったので、経済的にも不安はあります。活動をすればするほど、収入も減りますし、家計にも影響しますから。でも、夫の頑固な部分や想いを知っているから、できる限りの応援はしたいと思っています」
助成金を申請せず、手弁当で活動する理由
人と会うにも、活動をするにも必要な経費が発生する。「貯金を切り崩しながら活動することもある」と由佳子さんが話すように、活動すればするほど収入が減ってしまう中、助成金は一度も申請したことがないのだという。
恒松:「基本的には募金を活動資金にさせて頂いています。僕らに助成金が来たら、他の必要なところにいかないでしょ。それに、尖ったことやっていれば助成金もおりるのでしょうが、僕たちは色んなところで色んなことをやっているから、条件に当てはまらないことも多いと思うんです。そもそも助成金を申請する暇がないということもあるわけですが(苦笑)。
もうちょっと先のことも考えた方がいいのかもしれませんが、先のことをあれこれ考えるよりも、今やるべきことを忘れないことの方が僕の中では大事なんです。今、自分が自分らしくやれているのかということの方がよっぽど大事」
熊本のために団体と自分を使い尽くすと決めた
己の利益を顧みず、ただ故郷のため、熊本のために力を尽くす恒松さん。社団法人の設立からたった1年で賛同する人や企業が集まり、活動の幅を広げているのも、その信念と行動力があってこそだろう。活動をする上で大切にしていることはあるのだろうか。
恒松:「僕はバカなんですよ。どこまでいってもバカはバカなんだけど、みんなに愛してもらえるようなバカにならんといかんなって思います。器用にやろうとしても、器用にやれたとしても、相手は物ではなく人なので、絶対に通用しないんですよね。だったら、自分という人間を晒すしかないんです。とにかく人に会って、自分を晒しての繰り返しです」
震災後、現地の状況や必要とされるフェーズが変わる中、自ら発信し、行動を続けてきているが、今後の展望は何かあるのだろうか。
恒松:「とことん熊本のために動こうと思っています。自分への利害や欲得を考え始めると想いが届かないと思うので、熊本のためだけにこの団体と自分自身を使い尽くして、使い尽くして、使い尽くそうと、昨年の10月頃に決めました。きっとその先に何か楽しみがあるはずです。目の前にあるやるべきことに全力で取り組む。そして、それをずっと続けていくという覚悟はできています」
がんばるけん熊本機構の活動内容は>こちら
復興ボランティアにかける熱い想いと絶大な行動力。それに胸を打たれた賛同者は多く、今恒松さんのまわりには多くの人が集まってきている。がんばるけん熊本機構を熊本の復興支援のためだけに使い尽くす。そして、先のこと考えるよりも、今大事なことと自分らしくいられることを忘れないことが大事。そう語る恒松さんの目はキラキラと輝き、強く熱いオーラを放っていた。人を動かすということはこういうことなんだと感動を覚えた。
ライター
編集者
カメラマン