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脳脊髄液減少症を20代で診断された私が立ち上げた「難病の人たちがほどほど、楽になる」取り組み

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「脳脊髄液減少症」という病名を聞いたことがあるだろうか。脳脊髄を取り囲む髄膜から髄液が漏出し、髄液圧が低下することによって、起立性頭痛、倦怠感、めまい、吐き気、慢性的な疼痛などの症状が出現する研究途上の難病で、現在日本には約50万人の患者がいるとされる。

重光喬之さんは、脳脊髄液減少症をもつひとりだ。2016年から、同じ病気を持つ人のための任意団体「feese」(今後は、NPO法人両育わーるどの中で「THINK POSSIBILITY」として活動予定)を立ち上げ、活動している。

当事者だからこそ感じる、病気を抱えながら生きるつらさや社会の理解不足、制度が反映されるまでの時差。もし自分が、世の中であまり知られておらず治療法も確立されていない病気にかかったり、理不尽を感じる社会課題に遭遇したりしたとしたら、現状に不平不満を言いながら「どうせ何も変わらない」とあきらめてしまう人もいるかもしれない。

しかし重光さんは「2枚目の名刺」という方法で、自分と同じ病気の人を助け、社会を変えていこうとする行動を選んだ。

重光さんに、団体を立ち上げた経緯、脳脊髄液減少症をはじめとする難病にまつわる社会の課題、病気や団体の活動を通じてもたらされた変化などについてうかがった。

病気を発症後、福祉の世界へ

重光さんは20代半ばだった2006年、会社員としてシステムエンジニアの仕事をしていたときに、脳脊髄液減少症を発症した。

ある日突然首に強い痛みを感じ、いくつかの病院を回ったのですが原因がわかりませんでした。たまたま会社の上司の知人に同じ病気の方がいて、『もしかしたら脳脊髄液減少症かもしれないよ』と言われて。当時東京都内では2か所しか診てもらえる病院がなく、検査入院ができたのは9か月後。そこでやっと脳脊髄液減少症と診断され、そのまま手術をすることになったんです。今では一部保険適用になりましたが当時は全額自己負担で、治療費の負担も大きかったです」

その後入院や手術を繰り返したが、完治することはなかった。会社に勤務していた5年間のうち、約半分はほぼ寝たきりの生活。治療中は会社を休職せざるを得ず、結果的に退職した。

退職後の2010年、30歳になった重光さんは起業を考え、NPO法人【政策学校】一新塾に入る。当初は経験を活かしIT関連の起業を考えていたが、そこで出会った仲間と、2012年にNPO法人両育わーるどを設立した。

両育わーるどは、福祉施設の運営支援を通じた子供たちの育成環境の向上や、福祉現場を知らない人が現場と出会う場をつくり、『障がい福祉と社会との接点を増やす』ことで、児童・職員・第三者それぞれが共に学びあうための活動をおこなう団体だ。

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両育わーるどでは、日本社会で暮らす9人に1人が障がいや難病を持っていることを広める啓発活動として、THINK UNIVERSALというプロジェクトも実施。(画像=重光さん提供)

実は、重光さんが福祉の領域で活動をするのははじめてではない。

学生時代に当時一緒にバンドを組んでいたメンバーに誘われ、福祉施設のボランティアへ行きました。小学5年生のダウン症の女の子と一緒にバザーの売り子や出店、出し物を楽しむというもので、障がいのある子と接したのはその時がはじめてでした。泣かれてしまったり、言葉をなかなか聞き取れなかったりしてはじめは戸惑いましたが、だんだん楽しくなってきて。その子が出店のチョコバナナが好きでたくさん食べるので、もうおしまいにしようとあの手この手で伝えてみたり、一緒に手作りのカーネーションを制作したりしました。

起業のためのスクールで『あなたの大事な経験は何ですか』と問われたとき、私の場合は、子どもたちとのやりとりから得たものだという答えが出ました。福祉施設での経験は、人とかかわることが好きだという気づきや、コミュニケーションスキルを磨く機会になりました。同時に、子どもの現場には魅力と同時に多くの課題があることも実感していたので、児童の育成環境の課題解決につながる事業をできないかと考えたんです

「苦しいのは自分だけじゃない」と知ったことがきっかけに

2016年、重光さんは両育わーるどの活動のかたわら、2枚目の名刺としてfeeseを立ち上げる。団体の立ち上げは、自身の実体験がきっかけだった。

「脳脊髄液減少症になってからは、終わりのない痛みとともに生き続けるのは難しいと実感する日々が続きました。病気になり7~8年が過ぎたころには痛みの改善に希望を抱けず、自暴自棄になっていました。

この病気の大変なところは、見た目からはわからないところ。症状は人によって異なりますが、私の場合は、普通に話したり日常生活をおくったりしているように見えても、常に身体に痛みがあります。痛みで眠れなかったり、文字を読んでいてもなかなか頭に入ってこなかったりなど、睡眠障害や記憶障害もあったりします。

当時、同じ病気の方と知り合って話す機会がありました。たった一回、1時間ほどの電話でしたが、話を聞いてもらえたことで楽になり『苦しんでいるのは自分だけじゃないんだ』と実感できた。それまでは症状のしんどさだけでなく、そのつらさを家族にすら理解してもらえず『誰にもわかってもらえない』という気持ちを一人で抱え込んでいました。

生活や医療、就学・就労などの福祉制度が整っている障がいや疾患に比べると、難病や研究途上の疾患は、適切な社会支援を受けられていません。社会から認知・理解されていないうえ、制度も追いついていない。治療法も確立されていないため、病気を抱えながらの生活に希望が見えず、中にはうつ病になったり自殺してしまったりする方もいます。

ブログやwebメディアで自分の病気に関する記事を書いたところ、脳脊髄液減少症の方をはじめ、線維筋痛症や慢性疲労症候群などほかの疾患を持つ方からも反響がありました。身近なパートナーや家族にすら受け入れてもらえないこと、学校や職場から理解を得ることが難しく、就学・就労の継続が難しいにもかかわらずそれの代わりになるものがないこと、家族と医師に会う以外は自室で療養を続けるだけで孤立していることなど、病名や症状を越え共通の情報が集まったんです。

そこで『自分と同じような状況で悩んでいる人たちのリアルな声を知ることができる場があれば、彼らの生きる助けになるかもしれない。病気と折り合いをつけながら生きるために実践していることやエピソードを共有できる場をつくれないか』と考えました」

あえて「当事者同士が交流しない」場を

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重光さんは2016年に、日々の生活の知恵、症状緩和の工夫、当事者が回答したエピソード共有などができるサイト「feese」を立ち上げた。サイト公開後は、瞬く間に問い合わせが来たという。当事者として悩み苦しんだ時期があったからこそ、自分と同じように病気で苦しむ人の声を聞きながら、自分たちに少しは役立つものをつくることができたのではないか、と重光さんは考える。

「『サイトを見て、自分はひとりじゃないと実感できた』という意見を多くもらいました。患者さん同士のネットの掲示板やTwitter上などのやりとりだと、病名が同じでも症状には違いがあるし、家族との関係性や環境も異なる。ときには不幸自慢になってしまったり他人の環境を羨んだりと、直接的なコミュニケーションがマイナスになることもあります。

サイトには当事者同士が交流する場所はあえて設けていないので、その距離感が逆に良いのかもしれません

欲しかった情報を得たり、自分と同じ人の事例を知って参考にしたりできる場ではあるけれど、互いに踏み込みすぎない。症状や治療環境に個人差がある病気だからこその配慮が、結果として多くの人の助けにつながった。

難病の人たちが自分らしく生き、働くこともできる社会へ

feeseは現在、難病の人のための働くロールモデルづくり、当事者の社会参加に向けたアドボカシー活動、当事者データ活用の研究会の3つの活動をおこなう。(現在、サイトの更新は休止中)

「患者さんの中にはほぼ寝たきりの状態で働けない方もたくさんいる一方で、1日4時間働いたり、自宅でできる仕事をしたり、調子が良い時に家業を手伝ったりするなど、自分の体調に合った就労形態で働く人たちもいます。企業や地方自治体と協力し、週に累積10~20時間をめどに、在宅でできるショートタイムワークや、チームで働く仕組みをつくっている途中です。

障害者雇用促進法の中に『指定難病』が対象として明記されるだけでも、社会の仕組みは変わる。今は、目に見える症状や制限などのわかりやすさがないと障害者手帳をもらうことは難しく、就職活動では健常者と同じ扱いです。当事者、雇用主、識者らと、改正に向けて政策提言の準備の場を設けています。

2020年の東京パラリンピックが終わるまでに、指定難病、線維筋痛症や慢性疲労症候群などの研究途上の疾患のある人の存在とその人たちが持つ可能性を社会に認知してもらい、当事者の社会参加の選択肢が増えることを目指しています

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当事者データ活用の研究会で話をする重光さん。(写真=重光さん提供)

現在、feeseの運営メンバーは15名程度。当事者、医療従事者、大学の助教授、ソーシャルワーカー、映像制作者、公務員、ITエンジニア、クリエイターなど、実にさまざまな職業のメンバーが2枚目の名刺として運営に携わる。活動内容ごとにチーム分けをし、打ち合わせはオンラインや電話などを活用。横になったままでもスマートフォンで業務ができるようにしている。

バックグラウンドの異なる人たちが運営スタッフとなり、自分のできることを活かし精力的にfeeseの活動に携わるのは、重光さん自身の熱意や想いが「自分も力になりたい」と周囲を奮い立たせるからだろう。

2枚目の名刺が、自分も他人も助ける存在に

2枚目の名刺としてfeeseを立ち上げた重光さん。次第に、feeseの活動に専念したいと考えるようになる。現在は両育わーるどの理事長を他のメンバーに任せ、feeseの活動をメインにおこなう。

病気になったことやfeeseの立ち上げは、重光さんに価値観や考え方の変化をもたらした。

「『病気になってよかった』とは思わないけれど、それまでの自分は、他者の気持ちに思いをはせることができない人間だったと思います。病気になったことで『誰もが目に見えない苦労や悩みを抱えているんだ』と想像できるようになり、他人を思いやることも少しですができるようになりました。あとは、稼働できる時間が少ないということもありますが、自分で全部やろうとせず手放したり、人に任せたりしようともしているところです。

feeseの活動を通じて私自身さまざまな生き方を垣間見て、自分をゆるせたり、他者を受け入れたりする気持ちになれました。生きるだけで大変だと感じ、ネガティブになることもありますが、そういった人は私だけではなくほかにも大勢いる。少しのかかわりや考え方の変化で孤立は緩和するかもしれないと考え、もがきながらも取り組みを続けています。最初は2枚目の名刺としてはじめたfeeseが、今は私の生きる理由になっているかもしれません

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重光さんは、難病とともに生きることがつらいと感じている人へ、このようなメッセージを伝えたいという。

『期待し過ぎず、でもあきらめないで、ほどほどに』。家の中でじっと病気と向き合っていると、『いつか新しい治療法が見つかって治るのではないか』『今の生活の苦しさを支えてくれる制度ができるのではないか』『周囲に理解してもらえるのではないか』と考えては、現実に立ち返りがっかりしてしまうこともあるでしょう。

もしもたった一人でそんな気持ちを抱えているのならば、たまには自室以外の居場所をつくったり、家族や医師以外の誰かともかかわったりしてみてはどうでしょうか。人とのかかわりの中では嫌な思いをすることもあるけれど、まだ見ぬ戦友の存在を感じたり他の人の生き方を知ったりすることが生きる力につながるかもしれませんし、誰かがあなたの存在を知って励まされたり、心を動かされたりするかもしれません。また、今まで気づかなかった自分の可能性を感じられるかもしれません。

それはとても小さなものかもしれませんが、明日を生きる希望につながると私は考えます。THINK POSSIBILITY.自分の可能性、選択肢があることに気づいて欲しいなと思います

ただ現状を嘆くのではなく、同じ境遇の人が少しでも楽になれるための方法を考えたり、社会の理解を深めたり、制度を変えたりするために動く。もちろん、誰もが重光さんのように団体を立ち上げ精力的に活動できるわけではないが、2枚目の名刺として、自分にできることからはじめていくことはできる。

それが結果として、私たちを取り巻く社会を変えていく第一歩につながるのではないだろうか。

写真:松村宇洋(Pecogram)

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手塚 巧子
ライター
1987年生まれ。日本大学芸術学部卒業後、出版社勤務等を経て、ライター・編集者として活動中。ビジネス、社会問題、金融、女性・学生向け媒体など、幅広いジャンルにて記事を執筆。小説執筆も行い、短編小説入賞経験あり。