パラスポーツで社会と関わる!「2020」に自分を刻印するプロジェクト、始めます!ー小林忠広(後編)
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自分の熱量を、社会課題の解決のために使いたい
ここからは、東日本大震災をきっかけにパラスポーツに対する感度が高まった小林さんが、NPO二枚目の名刺のメンバーとなり、「パラスポーツ・プロジェクト」を立ち上げた経緯について聞いていこう。自らが代表を務めるスポーツコーチング・イニシアチブの活動のなかで、二枚目の名刺の代表でもあり、慶應ラグビー部OBでもある廣優樹と出会ったことがきっかけだが、もともとその理念には共感を覚えていたという。
小林:ラグビーボールだけを見つめ、念願の花園に行き、小さいころからの目標を達成したときに、自分の内面に何か地殻変動とも言うべきことが起こりました。自分の中のマグマが、今までとは違う方向に動いたというか。どうせだったらそのエネルギーを社会課題の解決に使いたいと思っていました。
偉そうに聞こえるかもしれませんが、自分の中の熱をもっと人のために向けたかったんです。世界には、そうした力を必要としている場所がたくさんありますからね。だから二枚目の名刺の活動には、以前から興味を持っていました。
――指導者や保護者にアプローチして、スポーツ教育の環境を変えるという目的で設立したスポーツコーチング・イニシアチブの活動と、リンクする部分はあったんですか?
小林:そもそも日本のスポーツコーチって、“2枚目の名刺”としてやっている方が多いと思うんです。つまり、プロコーチではなくボランティアコーチ。週末にお父さんがサッカーチームのコーチをやっていたり。そういう人たちに着目し、エンパワーメントしたかった。一生懸命にやっているのは分かるのですが、生徒の方から見ると、なぜそのやり方なんだろうと疑問に思う部分が未だにある。そのような現場に風穴を開けるためにNPOを立ち上げたんです。
――NPO二枚目の名刺の理念は、すぐに理解できましたか?
小林:3秒ぐらいで(笑)。なぜなら、僕自身がずっと2枚目で生きてきましたから。ラグビーが終わってからは、何かと何かを常に並行しながらやってきた。ただ、そもそも「2枚目」って言っている時点で、この活動の普及スピードは上がっていかないんじゃないか、とも思っているんです。
そんな考え方に至ったのは、ワシントンD.C.に留学したときの体験があったからだ。現地では、「プロボノ」といって、多くの専門的な知識を持った人たちがオフィスワーク以外の時間を使い、地域のボランティアやイベントに参加していた。それも片手間ではなく、「命を懸けて」(小林さん)。それが衝撃的だったという。
忘れられないのは、「ルーム・トゥ・リード」のミーティングに参加した時に見た光景だ。「ルーム・トゥ・リード」とは、マイクロソフトの元幹部、ジョン・ウッドによって創設された国際的なNGO。バングラディシュなど開発途上国の子どもの人生を、読み書きの習得など教育機会を与えることで変えていこうという理念を持つ。
小林:単なる一支部(ワシントン支部)のミーティングですよ。それも平日の昼間。にも関わらず、50人くらいの人が参加していたんです。驚きでしたね。その会はとてもカジュアルで、お酒を片手に話をしている。そんなのが当たり前にあるような社会はとても豊かではないのかと。日本にもこの環境を作りたい、そう思いましたね。
2020に関わりたい人と競技団体を結びつける
――そうしたなか、二枚目の名刺で2020年に開催される国際大会に向けたプロジェクトを立ち上げた理由は?
小林:「2020年」って単語が広まってきたことで、ちょっとそわそわしているというか、自分も何らかの形で関わりたいと思っている人は絶対にいるはずなんです。僕自身も、「2020」がなければ、きっと日本にはいなかった。でも、2013年に開催が決まった瞬間に、無条件に日本にいること、もっと言えば日本人であることが肯定されたんです。「2020」は、あの「2011」の次に訪れるひとつの新たな区切り。そこで何かをやりたかった。
――健常者スポーツではなく、障がい者スポーツで?
小林:健常者スポーツは色んな人が関わっているから充分かと。それに比べて障がい者スポーツは、なぜか分からないけど注目度が低くて、お金も人も足りていない。当事者(競技団体)サイドには、もっと仕掛けていきたいという想いやアイデアがあるんですが、いかんせん人が足りていないんです。そこで、何らかの形で「2020」に関わりたい人と競技団体を結び付けられないかと。スポーツを通じて文化を作るとか、新たな人の流れを作るとか、元々僕がやりたかったことでもありますからね。
――具体的にはどんなことを仕掛けていくのでしょう?
小林:二枚目の名刺のサポートプロジェクトを、パラスポーツの競技団体で実施していきます。さまざまな人たちが、組織や立場を超えて、競技団体と一緒に「2020」に参加する機会を作っていこうと。今は、パラ・パワーリフティング連盟や日本肢体不自由者卓球協会と連携したサポートプロジェクトを11月6日にスタートすべく、動いているところです。
――競技団体と、それをサポートする人たちを結び付ける作業は難しくはないですか?
小林:そこはこれから本格的にやっていきますが、ハードルは低くはないでしょうね。そもそも(パラスポーツの競技種目である)パラ・パワーリフティングやパラ卓球って、ほとんどの人にとっては見たことも聞いたこともないスポーツですから。自分でゼロから始めるのは相当なエネルギーが要りますが、出来上がったものに乗っかりたい、手伝いたいという想いを持っている人は少なくないと思います。知り合いに話すと、みんな“会った瞬”(会った瞬間)で「面白そうだね」って言ってくれますよ。
――メンバーとして想定しているのは若い人?
小林:自分と同じ25歳くらいだと、そろそろ仕事にも慣れて、他のことにチャレンジしたいなって思い始める時期ですからね。でも、40歳を過ぎて、子育てもひと段落して、元々スポーツをやっていたから、何かやりたいなって思っているような人にも参加して欲しい。人生経験豊富な人たちが輪の中に入って来たら、社会の波も大きく変わると思うんです。きっと参加者自身も生き生きとするはずだし、そういった時間の使い方こそが、豊かさなんじゃないかと。
2020を、自分と社会を変えるきっかけの年に
2枚目の名刺の活動にブレーキがかかるのは、まだまだ日本の企業がパラレルキャリアを応援しにくい現状があるからだろう。企業側には本業を疎かにされてはたまらないという危惧があり、2枚目の名刺を持つ側にも、それを大っぴらに口にできない引け目が少なからずある。だが、その点に関して、小林さんは心配していない。
小林:それが「2020」を盛り上げ、障がい者を支えるプロジェクトとなれば、企業としても応援しやすいでしょう。むしろ、そこでの活動で得たものを企業にフィードバックし、新たなビジネスにつなげるような、そんな流れも作り出せると思っています。主体的にプロジェクトに関われば、自分自身の言葉でパラスポーツの魅力を語れる。そこにこそ大きな価値があるはずなんです。
――では、受け入れる側の態勢は? パラスポーツの競技団体は旧態依然としているイメージがありますが?
小林:そうでしょうか? もしそうだとしても、そこをゴリゴリと口説いていくのが僕の仕事(笑)。まずは比較的柔軟そうな競技団体に出向いて、「一緒に流れを変えていきましょう」と風穴を開けていきたいです。
――競技団体サイドは、何を期待している?
小林:正直、何を期待しているかも話して欲しいですね。障がい者スポーツの競技団体も、この2020年を機に、もっとこの面白さを発信していかなければならないと思っているはずなので。
既に二枚目の名刺と小林さんは、パラ・パワーリフティング連盟とのサポートプロジェクトを実現し、ひとつの形を作り上げている。その経験をもとに、2020年に向けて、全22の競技団体と協力関係を築くのが目標だ。
(パラ・パワーリフティングプロジェクトでは、イベントをサポートし、競技のおもしろさや魅力を発信した)
では、これから二枚目の名刺で立ち上げる「パラスポーツ・プロジェクト」のゴールはどこにあり、何を持って成功と呼ぶのだろうか。
小林:多くの人が2020年の国際大会に参加すること。その参加するきっかけをデザインするのがこのプロジェクトです。プロジェクトを通して、自分は2020年にこういう風に関わったんだよと、語れる人が増えて欲しい。競技団体はさらに多様な人が関わることで、新しい可能性が生まれるでしょうし、より活動がしやすくなるはずです。
いや……、もう少し大きく言えば、この活動を通じて、障がい者やパラスポーツをサポートする人たちが、日本にもっともっと増えること。そうなったときこそ、成功と言えるのかもしれません。その潮目を作るのが、2020年なんです。
――つまり、ゴールは2020年ではない?
小林:2020年はあくまで通過点ですね。もしかしたら、様々な活動の成果が実を結ぶのは2020年以降になってしまうかもしれない。でも、それでもいいと思うんです。やり始めることに価値がある。こうして仕掛けることで、見えなかったものが見えてくるはずですから。ゴールはないんです。
慶應義塾幼稚舎から慶應義塾大学へ。正真正銘の慶應ボーイである。これまで何不自由なく育ってきたと、経歴だけを見れば、そう思われても仕方がないだろう。
だが、インタビューを通して伝わってきたのは、鼻につくようなエリート感ではなく、むしろ今にも溢れんばかりの熱量であり、周りの人間をいつの間にか魅了してしまう「巻き込み力」だった。おそらく、ラグビーにすべてを捧げた高校までの18年間も、少なからず彼を“骨太”にしたはずだが、それだけが理由ではないだろう。
カンボジアで、東北で、ワシントンD.C.で。見逃そうと思えば見逃せるものにもしっかりと目を向け、感情が突き動かされるままに、ストレートに行動に移してきた。ときに葛藤しながらも走り続けてきた25年間が、今の彼を形作っている。
「楕円球の啓示とパラスポーツ」
接点を見出しにくい2つのワードを結び付けたのは、その豊かな感受性と、飛び抜けた実行力だ。彼ならば、多くの人たちを2020年の国際大会に巻き込んでくれそうな気がする。
2020をきっかけに自分を変える、社会を変える
「パラスポーツ・プロジェクト」始動します!
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