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“ハサミの力”で次の社会を創る!美容学生への啓蒙活動、復興支援…拡がり続ける「ハサミノチカラ」(前編)

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前回の小山﨑裕士さんのインタビューでは、「ハサミノチカラ」のネクストステージとして、日本で法人を立ち上げ、フィリピンのアカデミーを卒業した子ども達が働くためのサロンオープンに向けた動きがあることをお伝えした。

実はこの動きの裏にはもう一人重要な人物がいる。それが今回ご紹介する佐藤涼さん(美容室「ユアーズ」オーナー)だ。佐藤さんもハサミノチカラ発足当時からのメンバーで、ハサミノチカラをもっと広めようと、精力的に活動している。さらに、地元・福島県郡山市で、美容学生に向けた啓蒙活動をしたり、復興支援活動をしたりといった“2枚目の名刺”も持っている。佐藤さんから見たハサミノチカラや日本の美容業界についてお話を伺った。

ハサミノチカラとは
フィリピンの子どもたちを支援するNPO法人アクションが主催する子どもたちへの職業訓練・能力向上プロジェクトの一つ。フィリピンではスキルさえあれば、資格なく美容師という職業を得ることができるため、日本のヘアカット技術を習得し、プロの美容師になるためのプログラムを実施している。

また、この活動に賛同した日本の美容師による孤児院や貧困地域でのボランティアカットツアーを行っている。

なぜ美容師はフィリピンでプロボノ活動をするのか?ハサミノチカラプロジェクト同行レポ

 

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参加のきっかけは一通のメール

ーーーハサミノチカラを法人化してフィリピンにサロンをオープンさせるとお聞きしました。 

佐藤:本当は現地に別会社を作ってサロン運営してもらったほうが僕たちとしてもシンプルでいいんですけどね。日本で法人化しようと思った理由は、ここまでやってきたことが、ちゃんと運営しないと続かないと思ったからなんです。アクション(現地のNPO法人)にいつまでも頼りきりだと、これ以上大きな活動にはなっていかないから。こちらで運営すれば、利益を上げることを考えるし、責任感も出てきますし。

ーーーそもそも佐藤さんがハサミノチカラに参加するきっかけって何だったんですか?

佐藤:きっかけはね、なんとなくです(笑)

ーーー誰かから聞いたとか?

佐藤:北原さんに誘われました。僕、大学時代、北原さんに髪の毛切ってもらってたんですよ。その時からの繋がりで。

———専門学校ではなく、大学ですか?

佐藤:はい。大学に通いながら美容専門学校に通っていました。ゆくゆくは父が経営していた美容室を継ぐ予定で。

ーーー学生時代から2枚目スタイルを実践されていたんですね!ハサミノチカラへは、どんな風に誘われたんですか?

佐藤:「涼さん、一緒にマニラいかない?」ってそれだけ。しかもメールで(笑)

ーーー一体なんのこと?状態ですよね(笑) 

佐藤:出発まで一ヶ月を切ってたと思いますよ。3週間前くらいだったと思う。「マニラ一緒にいかない?」って言われたけど、僕もなんのこっちゃわからない。海外旅行もハワイくらいしか行ったことなくて、発展途上国は正直苦手だったんですよ。でも北原さんにはお世話になってるし、大先輩に言われたら行くしかないなと。「じゃあ行きます」って答えて、それから「で、何するの?」って。

ーーー行くって決めてから内容を知ったんですね。

佐藤:何すればいいか全くわからなかったから、一応ハサミは持って行って。「フィリピン行って子どもの髪切るから」としか教えてくれなかったんですよ、北原さん(笑)

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シンプルに考えることの大切さ

ーーー佐藤さんは今までハサミノチカラに7回ほど参加されているとのことですが、行き続けてる 理由って何でしょう? 

佐藤:フィリピンに行って得るものがあるからですね。自分の考えがすごくシンプルになるんです。

ーーーどういうことですか? 

佐藤:フィリピンの貧困地域の子ども達って、チャレンジできること自体が幸せなんですよね。だから、何か与えられたら絶対にチャレンジする。一択なんですよ。二択できるほど選択肢がないというか。僕らは日本にいて、選択肢がありすぎる。しかも、選択した後、それが良かったかとか失敗だったかとか、考えなければいけないことがたくさんありすぎる。豊かすぎるんですよね、きっと。「豊か=選択肢が多い」ってことにフィリピンに行って気づきました。選択肢の多い日本は豊かなんだけど、時としてその選択肢の多さがすごく煩わしいことになるんですよね。

フィリピンから帰ってきてからは、仕事もシンプル化しました。あとは、「髪を切る」ということと「マネタイズする」ということを切り離して考えられるようにもなりました。美容師って、お客様を綺麗にするとか、技術やデザインを追い求めることを理想としていて、「マネタイズ」という言葉自体にちょっと批判的な感情があったりする。僕も以前はどこかにそんな感情があったんですよね。そういうものが、フィリピンから帰ってきてからは全くなくなりました。

「やれることはやる。やりたいこともやる。やりたくないことはやらない」ってハッキリしてたんですよ、フィリピンの子ども達って。そのシンプルさにすごく浄化されたというか。とても心地よくて。だから、「何かやってあげる」「何かしてあげたい」という気持ちでは行ってないです。3年目とかはハサミ持って行くのやめようかなと思ったくらい。フィリピンに行くことが自然になってる。

ーーーいろいろ考えすぎているというのは、ありますよね。

佐藤:美容業界で一時期、ディズニーランドとかリッツカールトンとかの接客や接遇を学ぶ講習がすごく増えた時期があるんですよね。「おもてなし」を学びましょうってことなんですけど。要は、今まで技術でお客様を引っ張っていたものを、今度は「サービス」だよ、だからお客様を「おもてなし」しましょうって。それが今は「癒し」というところまで来てるんですけどね。

その「おもてなし」の時にいろいろな講習がありましたけど、あれね、苦しめるんですよ、自分たちを。これはフィリピンに限らずだと思うんですけど、海外で飲食店に入るじゃないですか。そうするとスタッフ同士でぺちゃくちゃお喋りしてる。呼ばない限り放っておかれる。おもてなし感ゼロなわけです。でも、楽なんですよね、客側も。こっちも適当にやっちゃえって思える。

日本のレストランで「いらっしゃいませ。どうなさいますか」ってかしこまって聞かれると、客側も固くなっちゃう。そういう雰囲気が好きな人もいると思うけど、ストレスになる人も絶対いると思うんです。僕は、自分たちが提供する「おもてなし」の85%くらいは独りよがりだと思ってます。相手は実はそんなこと求めてないかもしれない。そういう感覚がフィリピンに行ってから身につきましたね。帰って来てからは「おもてなし、別に」って(笑)。

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ーーーじゃあ、佐藤さんのお店の方針も変わったんですか?

佐藤:今まで以下にはしないですけどね。でも、決しておもてなしに重点を置くことはしなくなりました。お客様が何を求めてるか考えると、サプライズよりも「安心感」だと思うんです。毎回何か新しいことをしてくれるというドキドキよりも、いつ行っても安心するとか、このお店に任せておけば間違いないという安心感。

何かこちらから特別なことをしなくても、自然に物事は回っているんだなってフィリピンの子ども達が感じさせてくれたんですよ。

ーーー特別なことをしなくていい…?

佐藤:自分のやっていることがプラスになっているのかとか、あまり考えなくなりました。それははじめさん(NPO法人アクション代表)の言葉で気付かされたんですけど。ハサミノチカラに初めて参加した時に、「子ども達の髪を切ってあげたけど、僕たちは日本に帰ってしまう。僕らのやったことってあまり意味のないことなんじゃないか」って言った人がいたんです。

はじめさんは考える間も無く「いや、やったことは必ず何かに繋がってますから」って答えたんです。子どもが喜んで家に帰れば、貧しい中働いているお母さんがその子の笑顔を見て幸せな気持ちになる。そしてそのお母さんが幸せな気持ちのまま他の人に接する。そうするとまたそこからハッピーな気持ちが自然に広まって行く。その繰り返しなんだと。

はじめさんに「子どもにお金をあげようか迷う」って言った時も、「あげたかったらあげればいいんじゃないですか? やりたくなければ、やらなくていいし」って答えたんですよね。フィリピンでNPO法人まで立ち上げた人がそういう感覚でいるってことに、すごく気持ちが楽になりました。

———自分の心に従えばいい、と。

佐藤:僕がフィリピンに行ったということだけでも何かが変わってるんですよね。日本だって、例えば外国人が家に来て遊んでくれただけでも子どもにとっては凄く思い出に残るじゃないですか。だから、日本から来た美容師が髪を切ってくれたっていうのは絶対特別な思い出になるはず。それだけでも面白い活動だなって思えるようになりました。

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後編に続くーーー

後編では、佐藤さんの故郷・福島県郡山市での活動や、復興支援活動などについてお聞きします。

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ライター

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編集者

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カメラマン

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遠藤真耶
ライター
美容業界誌2誌の編集長を務めた後、2017年3月よりフリーランスの編集者として独立。撮影のキャスティング業も並行して行なっている。